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                         倫理とは
                                33162182   深田雄哉
倫理とは、人間がみずからの最大限の善をなすことで、人間性を高めようとする試みのこと。
 それは倫理よりもむしろ宗教の問題ではないかという疑問があるが、倫理と宗教は、親せきと言っていいほど相互に深い関係にあるもの。 宗教とは、信者に善行をすすめ、信仰をつうじて人格の完成を呼びかけるもの。宗教は善をすすめ、悪を退けるべきだと強調する。宗教と倫理の違いは行為の究極的基準が、宗教では信仰だが、倫理では合理的に判断する。たとえば、飲酒を禁じる宗教の場合、合理的に判断すれば、適度な飲酒は精神的にも肉体的にも何ら害をおよぼさない。したがって、倫理学的にはいっさい飲酒すべきでないという規範を根拠付けることができない。しかし、宗教なら、飲酒を無条件に禁じることができる。裏を返せば、宗教が合理的判断を基準にしていない証拠でもある。この禁止は他者に強要しないかぎり信仰の自由範囲内にある。ユダヤ教イスラームでは、豚肉食が禁忌とされているが、牛や羊の肉が許容され、豚肉のみを禁止する合理的根拠はない。宗教のすすめる行為規範は、多くが倫理学と重なり合うが、かならずしも合理的判断に基づいているわけではない点で、倫理学とはことなる。合理的に根拠づけられるべき倫理規範に、信仰に由来する非合理的要素を混ぜることは許されない。信仰による根拠付けは、合理的思考ができれば誰でも理解できる一般的な理論をめざす倫理学説としては不適切である。合理的思考を思考実験で様々なケースを考えることができるかどうかが重要である。宗教の存在する理由は人間はロボットとは異なり、自らの意思で行為を選択することが日常生活に不可欠であり。選択には基準が必要であり、その基準を与えようとする知的営みが倫理である。人間が人間であることをやめない限り、倫理は必要不可欠である。では宗教は必要不可欠かというと、宗教を信仰しなくても人間と選択基準となる善を語ることはできる。神のような超越者に依拠することなく、人間にふさわしい規範を体系化できる。ところが宗教のない世界は原理的にありえる。死後の世界の恐怖があるから。古代のエピロクスは、推論で、死後の世界の恐怖を払拭できると考えた。すべての人が人間にもたらす最大の災いを死であると信じているが、じつは死とはなんでもない。我々が生きているときには死は訪れておらず、死が訪れた時には我々ははもういなくなっているのだから死について現在進行形で恐れる瞬間は一度としてない。これはエピロクスが魂の不死を信じない唯物論者だからできた持論である。死とは物質である身体の機能停止。心は身体の機能だから心も消失する。唯物論の立場に納得できれば、宗教は必要ない。しかしこの説が絶対的に証明できない。苦とは物理的には観測できない魂がじっさいにあり、何らかの形で存続するという理論も成り立つから。信仰とは現在の地球は、残念ながらユートピア的な理想状態であるとはいいがたい。それは圧倒的な貧富の差が拡大し続けているから。素晴らしい善人もいるが、人でなしの悪人もいる。悪人が栄えている現実も存在する。現世では悪人を懲らしめることができない。しかし神が見ているので、この世でどんなに悪が栄えようとも悪人も末路は地獄だ。逆に、この世でどんなに苦しく、理不尽な死を迎えようとも、誠実なものには天国の祝福が待っている。こうした信仰が貧しい人々にとって大きな慰めとなる。こうした信仰は、民衆の素朴な正義感の表明でもある。悪は衰退して善が栄えるべきという倫理が求める方向と一致している。宗教には望ましい行為規範を促進するという積極的な教育的効果があるともいえる。宗教への信仰は人間性の自然な発露である。宗教は、どこまでも物事の根源を問い詰めようとする哲学的思考のひとつのあらわれでもある。たとえば、私たちの世界は物理法則によって成り立つが、なぜそのような物理法則なのだろう、なぜ今あるような現実があるのだろうか、なぜ宇宙は現在のようなありかたなのだろうか。哲学は、このような疑問に対して、偶然と答える。が、この答えに納得できない人もいる。宇宙や物理法則が現在にようなありかたをしているのは偶然ではなく必然と考えるから。必然とは人知を超えた存在によって創造されたもの。物事の根源、本質への飽くなき探究心は人間性そのものであり、宗教は人間性に深く根差しているともいえる。つまり倫理とは倫ともがら理ことわり。ともがらとは関係性のこと、人間は常に関係性の中で生きている。関係性から完全に独立した人はいなく、人とのかかわりで大切なものは何か、その大まかな道筋を示すのが倫理です。